愛と呼ばれるもの

ドラマや歌や書籍などで何度となく見聞きしてきた「愛」という日本語がどういう心情を表しているのかをきちんと説明できない。「好き」と「愛」の違いについても同様。ひとそれぞれの感じ方、と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、それでは面白くない。

僕には好きな人も好きな物もたくさんある。パンが好き、ゲームが好き、配偶者が好き、その他色々。好きの程度や性質に違いはあるものの、好きなことに変わりはない。

では、パンやゲームや配偶者を愛しているかどうか。それはわからない。愛しているのかもと思わないでもないが、それを自発的に言うことに抵抗を感じる。その抵抗は照れくささによるものでもあるが、より大きな要因は「愛しているかどうかは自分で判定するものではない」または「愛しているかどうかを自分で判定した結果を表明することは、あまり好きな態度ではない」という僕の考え方にあるのだと思っている。

「好き」というのはとても単純な心情だと思っている。好きじゃないか好きか。もちろん、好きであるが故の行動(パンが好きだからパンを食べると嬉しそうにする、など)が伴わないと、好きであるようには見えないだろうけれど、その「好きであるが故の行動」というのは割りとハードルが低いことだったりする。「宇宙旅行が好き」という事例のようにその対象自体がものすごくハードルが高いものだったりする可能性もあるけど、そういうのはちょっとおいておく。

一方「愛」は僕にとって「うわー、この人、ものすごく愛にあふれてる」と周囲に感じさせちゃうような状態を指す言葉だ。対象は人であることもあるし(配偶者を愛しまくってる人や、子供をどうにも愛しちゃってる人など)、物事であることもある(YMOコピーバンドYMOへの愛といったら!)。対象の種類によってその愛の優劣をつけようとは思わない。

そういう状態の人は自分から「アイシテマス」とか言わなくても、あふれ出ている対象への愛が周囲に伝わりまくってしまう。むしろ、そのような「愛情のあふれ」が顕在化してないような人に「アイシテマス」とか言われても、「口だけの愛」に思えちゃう。

以上のようなことを「愛」について以前から考えていた。で、唐突に文章にしようと思った理由は、例の「愛国心を育てよう」とかいう考え方に触れたからであり、どこかのブログで「○○を愛しなさいという考え方はどうよ?」という考え方に触れたからだ。

「アイシテマス」と言うことにすら抵抗のある僕にとって「愛しなさい」という考え方は銀河系の彼方のものだ。とはいえそう思う人がいてもおかしくないし、実際、愛されたいと思わないでもない。「愛してください」と表明するのはなかなか勇気のいる(または見苦しかったり浅ましかったりする)行為だと思うが、愛されないより愛された方が人生楽しいだろうから、お願いするだけお願いしてみてより幸せな人生を手に入れるという方策を非難するつもりはない。

とりあえず「愛しなさい」と言われたら「愛してるかどうかを表明することはできません。僕がソレを愛しているかどうかは見て判断してください。もし愛していないようでしたら、申し訳ないんですが僕がよりソレを愛せるように何かを変えてください。よろしくおねがいします。」とでも答えるしかない。

しかし、これでは話が平行線だ。

「愛しなさい」と言っている人は単に愛して欲しいのではないかもしれない。「愛しなさい」と言われて進んで愛することでより幸せになれる、という方策を僕に教えてくれているのかもしれない。

昔、落ち込んでいたときに友人から「笑う角には福来る」というのは本当だよ、と言われたことがある。確かにそれは本当だった。同じように「愛すれば福来る」というのがあってもおかしくない。

事実、愛国心というものを教科書で教わった人たちが幸せになれていたのかもしれない。そのような教育がおこなわれていた時代には、困ったことがたくさんあったのかもしれないけれど、そうでないこともそれなりにあったのだろう。その「そうでないこと」をまったく視界に入れずに結論を下してしまうのは、大事な何かを失うことに繋がるかもしれない。

第二次大戦以前の教育を受けていた人たちは次々と減っていく。できるならば、気が向いたときだけでもいいから当時の話を聞いて、納得いかなくてもいいから、あーこんなこともあるんだなー、無理してでも何かを自発的に愛したり、自ら愛していることを表明したりすることは案外悪いことじゃないんだなー、と思うのも、幸せに繋がる選択肢を増やす上で有用なのかもと思う。

思うだけで、何もしないとは思うけど(汗)。