プロデューサーズ

イクスピアリで観賞。この劇場はいつもは自由席なのだけれど、この映画は指定席になっていた。木曜のレイトショーを見る限りではその必要はないと思うのだけれど、休日やより早い時間はもっと混んでいるのかな。よほど混みあう映画(話題作の初回とか午後7時の回とか休日の午後とか)でなければ、指定席はやめて欲しい。見たい席なんて劇場に入ってみるまでわからないし、周囲の環境によっては席を移りたくなることも珍しくないので。

以下、「プロデューサーズ」のネタバレ。


映画化する必然を感じないというか、映画化してより悪くなっている部分が多かったように感じた。踊っている人の全体を写さない構図、踊っている人を追いかけてしまって動きを台無しにしているカメラの移動、せっかく舞台という時間・空間の制約がなくなったのに描かれる空間は狭苦しく、編集は全然リズミカルに思えない。

舞台版を見たときにはそれほどグっとこなかったのだけれど、こうして映画版を観てみると、あー、舞台は良くできてたんだなぁ、と思い直した(笑)。

映画化するにあたって、舞台とは違うことをしてみました、というのが必ずしも成功するとは限らないとは思う。舞台でうまくいったことをあえて映画で踏襲する、余計なことをして舞台のよさを損なわないようにする、それもあるんだろう。でも、だとしたら、必要以上にアップだったり、カメラの動きだったりが多い撮影方法は間違いなんじゃないかと思う。

とはいえ、「あ、ここは舞台よりいいかも」と思うところはあった。例えば、カギ十字のマスゲームをやる直前の行進のところを、足の高さから撮影したところは面白かった。マシュー・ブロデリックのカメラ目線は依然として魅力的。また、彼の発声法は舞台より映画に向いていると改めて思った。ネイサン・レインの醜悪さはどこで見ても一緒(笑)。

ユマ・サーマンのサービスぶりが唯一の救いながら、何とも痛々しい。

舞台ではできなかった、観客席の描写も興味深かった。なるほど、ヒトラー役が出てきたことが、芝居の評価を変えたと言うことだったのね。このことはもしかしたら舞台版で描かれていたのかもしれないけれど、セリフが全部英語だったから僕には理解できなかったのかもしれないけど。

舞台にしても、(2005年版の)映画にしても、ナチとゲイをこういう扱いにするのっていまどきどうよ、と思う。品行方正であれというのではなくて(悪趣味結構、偏見結構、差別結構)、いまどきその辺の文化だったりイデオロギーだったりをネタにするんだったら、もうちょっと緻密にやるとか、きちんと世界を描きこんだほうがよいと思うんだけど、それは僕が日本人で、この話の聞き手として想定されていないから、ということだろうか。もっと見ていてヒヤヒヤするような方面を拾って「現代版プロデューサーズ」を作って欲しいと思う。ぜひ。

舞台とナチとゲイ、ということでは「メル・ブルックス大脱走」(To Be Or Not To Be)が面白かったなぁ、とちょっと思い出した。この映画はメル・ブルックスが単なる役者として関わっているから面白いのか(笑)。