コバヤシマルの教訓

スター・トレック2を観たのは1983年2月のことだと思う。映画を観た、と断りなく言う場合、映画館で観たことを示している。

閑話休題

鑑賞日は非常に思い出深い。本編も大好きな映画ではあるものの、何より「ジェダイの復讐」の予告編が上映されたことは、当時の僕にとって天地がひっくり返らんばかりにめでたいことだった。この映画がその年の夏に上映されることは決まっていたが、いざ予告編を突きつけられてしまうと、胸が張り裂けてしまいそうな嬉しさを感じた。上映終了後に僕は有楽座のチケット売り場へと直行して指定席券を買おうとしたけれど、窓口のおねぇさんは「まだ売ってません」と丁寧だけれど冷ややかに答えた。

これも閑話休題

以下、スター・トレック2にまつわる話。この映画の物語について語ることが目的ではないのだけれど、ネタバレが含まれる。


この映画に出てくる「コバヤシマル」を、鑑賞当時高校生だった僕は何も感じずに見ていたのだけれど、最近ことあるごとにこれを思い出してしまう。「ルール違反」をフェアじゃないと言う前に、そのルールを自分で変えてしまう可能性を考えることの有用性を強く感じる機会が多いからなのかもしれない。実際、生活していてそういう局面に当たることは少なくない。

僕はルールを守ることがそれほど嫌いじゃない。あまりよろしくないルールであっても、みんなが守ればそれはそれでよい世の中になるんじゃないかと思う。自分に不利にならない範囲でルールを少しずつ破るうよりは、みんながルールを守っていけたら楽なのになと思う。

でも、実際はそんなことはなくて、多くの人は適切にルールを破るコツのようなものをもって生きている。ルールを守っていることは楽なんだけど、損をしているのが普通だ。ルールをどこまで破るのが適当かを判断するのは面倒くさいので、ルールを守ることの損を甘受していたりするのも事実。

困るのは、ルールを守っていて大きな損をしたときに、ルールを破って損を回避している人たちに腹が立つことだ。ルールを破っている人たちは、リスクを計算して、損をしないように立ち回るエネルギーを払っている。がんばっているのだ。

ルールの中でヌクヌクしていたい僕は、ルールをうまく破ってる人たちを疎ましく思う。別にうらやましく思わない。悔しいとは思うかもしれない。

スター・トレック2において、カークはシミュレータのプログラムを書き換えるというルール違反をしてコバヤシマルの課題をクリアした。スポックは自らの命を絶つという判断で他のクルーを救った(これがどうルール違反になるのかはいまだにうまく理解できないが、劇中ではこれがルール違反行為と位置づけられていたのかなと思っている)。サーヴィックはカークのルール違反を納得できない。僕も鑑賞当時はそう思った。今もそう思うが、ルールを適切に破るスキルが役に立つことや、ルールを守っている人がルールを破った人をただ非難するだけというのは効率が良くないということは認識しているつもり。

そんなことを内田樹のブログを読んで思った。かつて、カート・ヴォネガットのエッセイ(「大いに語る」だったか「パーム・サンデー」だったかは忘れた)を読んだときにも似たような考察をしたかもしれないが、コバヤシマルのことは思い出さなかった。

「不二家」化する日本 - 内田樹の研究室